
私の記憶に誤りがなければ、私は子どもに「勉強しなさい」と言ったことがない。「良い大学に入って良い会社に就職するために勉強しなさい」と言われてやる気が出る子なんていないと思う。
「勉強しなさい」と言わないのと同じくらいに、「勉強しなくてもいい」とか「勉強だけできても意味がない」というようなことも言ったことがないと思う。こどもの「どうして勉強しなくちゃいけないの?」には真剣に向き合ってきた。
義務教育というと勉強することを義務付けられているような印象だし、子どもの頃に「どうして勉強しなくちゃいけないの?」という疑問を抱いたことがないという人の方が少ないと思う。たとえそれを口に出さずにいたとしても。
よくわからないけどみんなが勉強しているからと、何となく自分を納得させている子どももいると思う。もし「どうして勉強しなくちゃいけないの?」に向き合ってくれる大人がいたら、勉強に抵抗がなくなるかもしれない。あるいは、勉強に対して意欲的になれるかもしれない。
こどもの「どうして勉強しなくちゃいけないの?」という疑問や「勉強しなくても生きていける!」と言い張る子どもに、私が伝えたことをまとめておく。何かのヒントにして頂ければ幸いである。
どうして勉強しなくちゃいけないの?
長男が小学校にあがってすぐのころ、宿題をしながら不満そうに「どうして勉強しなくちゃいけないの?」と私に聞いてきたことがあった。
そう思うのも無理はない、つい数か月前まで保育園に通っていて、いわゆるお勉強というものとは縁がなかった。私は幼児の早期教育に興味がなかったので、せいぜい絵本を読んでやる程度だった。ふくれっ面の長男を見て、宿題がめんどくさいんだろうなと思った。机をのぞき込むと長男がやっていたのは「さんすう」だった。私はやれやれと思いながら言った。
「そんなの楽をするために決まってるでしょ!!」
私の言葉を聞いた長男は合点がいかないような表情をしていた。「言ってることがわからない?」と聞くと「わからない」と答えた。きっと「なにそれ、意味わからんし」と思っていたのだろう。
ここから先はちょっとひどいことをしてしまったので反省している。
算数セットは学校において帰るので、家では普通のおはじきを使っていた。40個くらいあったと思う。
そのおはじきを「ちょっと全部、数えてみて」と長男に数えさせた。彼は予想通りに「いち、にい、さん、よん、ご……」と一つずつ数えていた。一生懸命に数える長男に私が全く関係ないことを話しかけると途中でいくつだったかわからなくなってしまった。私がもう一度また同じように途中で話しかけると、やっぱりわからなくなってしまった。長男は半泣きで「お母さん、ひどい!」と怒った。
※こういうやり方は本当に良くなかったと。全部やって見せるだけでよかったのではないかと思う。
これは私がやり過ぎだった。「ごめん、ごめん。ゆるして」と謝った。実はもっと楽に数える方法もあるし途中で話しかけられてもわからなくならない数え方がある、だから聞いてほしいと頼んだ。
私は、おはじきを2個ずつ「二、四、六、八、十」と数えて見せた。1個ずつ数えるより早い。次に5のかたまりにして5個ずつ数えて見せると長男は「すごーい」と驚いていた。
その次は10のかたまりを作って見せた。「こうして10ずつにしておくと、10のかたまりが二つだったら20ってわかるでしょ。途中で話しかけられても、10のかたまりのところは数え直さなくてもわかるじゃん」と説明するとストンと彼の胸に落ちたようだった。
「こういうことを知ってると楽ちんでしょ。勉強ってね、楽をするためにするんだよ」
数年後、高校生になった長男が「お母さんにまんまと丸め込まれてしまった」と言ったのは、たぶんこういうことだったのだと思う。
字の読み書き、できる人にやってもらえば困らない
次男が不登校だった時のことだ。とにかく、学校が大嫌いだった次男は学校を連想させる「勉強」も大嫌いだった。
当時の私は、何が何でも学校へ戻そうと思っていなかった。このまま学校へ通わずにいたとしても生きていくための学力は必要だと考えていた。とはいえ、当時は家で学ぶ方法が限られていた。今よりずっと選択肢が少なかったと思う。
「学校だけが勉強する場ではないのだから、無理に学校へ行かなくてもいいけど勉強は必要だと思う」と私の気持ちは伝えていたが、「どうして生きるために勉強が必要なの?」という疑問は残っていたのだろう。
大人になれば、何をするにも紙に文字を書かなきゃいけない。家を借りるにしても買うにしても、携帯電話を契約するにしても(今はwebでできることも多いが)、とにかく契約書というのが付いて回る。だから文字を読んだり書いたりする力が必要なのだと話した。すると次男からこんな言葉がかえってきた。
「字を読み書きできなくても、できる人にやってもらえば困らない」
次男はドヤ顔である。ははーん、そうきたかと私は内心おもしろくなった。次男は読み書きができなくても、できる人に読んでもらえば困らないはずだと言い張る。
「あのさ、それって頭のいい悪い人に騙されるよ」
ちゃんと正しく読んで教えてくれてるか、うそをついてないか、どうやって確かめるの?と少しあきれたように話すと次男は意地になってはむかってきた。
「良い人にやってもらえばいいんだ!!」
いや、あのね、良い人か悪い人かどうやって判断するの?悪い人は「ぼくは悪い人です」なんて言わないし、良い人も「ぼくは良い人です」と宣伝しない。何かしらの障害で字が読めないと認められれば、悪い人に騙されたとしても守られる余地があると思う。でも、特別な理由がないのに「勉強したくないから、勉強しませんでした。ぼくは字が読めません」は通用しないと思うんだよね、というような話をしたが次男はすんなり納得してなかったと思う。
計算機があるから計算できなくても困らない
これも次男が不登校をしていた時のことだ。とにかく勉強したくないのである。私は「勉強しなさい」とは言ってないが「勉強した方が良いと思う」とは言っていた。
私の「勉強した方が良いと思う」という言葉は、次男の頭の中で「勉強しなさい」に変換されていたのかもしれない。とはいえ、無理やり勉強させたことはないので、誤変換であったと気づいて記憶が修正されていることを願う。
「計算機があるから計算できなくても困らない」
そう次男が言ったのは、何がきっかけだったのか覚えていないが、いつものように反抗的な口調だった。
「そう思うんならそれでいいけどさ、計算機を作る人にはなれんよね」と私は言った。
計算機を作る人にならないとしても、計算機を使いこなすなら勉強が必要だ。計算機を持っていても、勉強してなかったら何をどう計算すれば求めている値になるのかわからない。
次男には予想外の返答だったのか納得したのかわからないが、この時の次男ははむかってこなかった。残念、反抗してくれたら最後まで説明できたのに。
次男はとにかく知恵がまわるというか、私が親でなかったら、きっと「屁理屈を言うな」と一蹴されていたと思う。感謝せよ、次男なのだ。
「勉強しなさい」と言うよりも
「勉強しなさい」は言わない方が良いと思う。だからといって「勉強しなくてもいい」も違うだろう。「勉強しなさい」と言うより「どうして勉強しなくちゃいけないの?」を解消できるように接するほうが「勉強しようかな」という気持ちにつながると思う。
私は「勉強することのデメリット」がわからないし、「勉強しないことのメリット」もわからない。知らないことを知るのは驚きもあるし楽しい。わからないことがわかると嬉しいから「勉強って楽しい」と思う。
だから、子どもに伝えたのは「勉強したらこんなことがわかるよ(できるよ)」とか「勉強しないとわからないこと(できないこと)があるよ」とか、そういうことだ。
それから、悲しいことだけど世の中には「頭のいい悪い人」がいる。学力はそういう人から自分を守る武器になる。それを得るために勉強は必要。
良くも悪くも親の価値観は子どもに伝わってしまうと思う。親が「微分積分なんて生きるために必要ない」と言っていたら、子どもも自然とそう思うようになってしまう。
「どうして勉強しなくちゃいけないの?」が解消した後に「勉強は楽しい」を感じてもらうには、周りの大人が「勉強は楽しい」になるのが一番の近道だと思う。
おわりに
古代遺跡、宇宙、恐竜、わが家では子どもが興味を持ったらすぐに本を買っていた(夕食が質素になっても本を優先させていた)。面白そうなことをテレビで放送していたら録画した。子どもの興味関心は次々と変わったが、それに付き合って兵馬俑を見に行ったり、恐竜展に行ったり、テレビを見たり、自分が子どもの頃にしてほしかったことをさせてもらった。次男との知恵比べのような時間が楽しかったと思う。なんというか、うん、RPGの攻略をリアルでやってる感じ。ありがとう、子どもたち。
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